王継鵬(おう けいほう)は十国・閩の第4代の王。後に王昶と改名している。
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永和元年(935年)、王継鵬は李倣と協力し王延鈞を殺害し帝位を継承、王昶と改名し李春燕を賢妃とした。翌年通文と改元、李春燕を皇后に封じている。李春燕は元は王延鈞の宮女であったが、王継鵬と私通した後、王延鈞より下賜された。
王継鵬も父の王延鈞同様、道教に心酔し政事については道士である陳守元との相談が行われ、また陳守仁のために大規模な造営を行う必要から売官が横行し、政事は大いに乱れた。また王継鵬は猜疑心が強く、宗室を次々と粛清し、叔父である王延羲は禍から逃れるため発狂を装い、自宅に軟禁されたこともあった。
当時は王審知の近衛軍であった拱宸都、控鶴都が存在していたが、王継鵬は自身の親軍である宸衛都を優遇したことから軍内に不満が発生、通文4年(939年)、拱宸・控鶴の軍使朱文進・連重が王宮への放火を疑われたことに不満が爆発、先手を取るべく両軍は王宮内に侵入し王継鵬は囚われの身となった。囚われた王継鵬は李春燕及び諸子と共に弟である王継業により殺害された。